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サイエントロジーの
拡張の歴史
ロサンゼルスに戻ったハバードは、生徒に講演と指導を続けました。これらの生徒たちは友人たちや家族や同僚をオーディティングするために故郷の町に戻って行き、そこから知らせはさらに広まり続けたのです。
1951年の春、ハバードは共産主義政権前のキューバのハバナで過ごしました。そこでは彼は無名であったため、ダイアネティックスに関する2冊目の主要作品「生存の科学」を完成させる機会を得ました。その頃、カンザス州ウィチタに新しく開設されたダイアネ
ティックス協会で、研究と指導をさらに続けてほしいという要請を受け入れました。
ここでハバードは、自らが初めて管理運営することになった組織、ハバード・カレッジを組織しました。この組織では、彼自身による監督のもとでオーディターをトレーニングし、これらのオーディターたちがオーディ
ティングの技能と結果を完全に示すことができた時に初めて認定証が与えられました。
ハバードが合衆国に戻ったという知らせが広まると多くの生徒が訪れ、1951年6月には、第1回ハバード・ダイアネティックスが開かれ、全国から最も優秀なオーディターたちがウィチタに集まりました。その後、夜はウィチタ商工会議所で、その地域社会の発展にいかに彼の技術が役立つかについて演説をしながら、講演やオーディター・トレーニングの監督を続けました。
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